imacoco能力開花プログラムのプレ配信で「ん?」と思った「承認欲求を感じたら足裏を擦って!」というフレーズ。
なぜ、足裏なのか?
そう思った人も多いはず。
でも俺は、スグに「あー、なるほど!」と思えた。
足裏には末端神経が集中している
その理由の1つが「アーシング」の記事にも書いているように、「足裏には身体の他の部分とは比較にならないほど末端神経が集中している」という生物にとって必要不可欠な機能があること。
そう。我々動物には、足裏の神経から地球上のエネルギーを補給できる機能がデフォルトで備わっているのだ。
言い換えるなら、動物にとって超重要な神経が足裏に備わっているということ。
それほど大切な機能をもつ「足裏」を、これまでどのように扱ってきたんだろう?そう俺は自問した。
すると、代表的な感覚の1つが「足って汚い」というイメージ。
「自分の顔」と「自分の足裏」を同等に扱えているか?と問えば、自信を持ってYESと言えない自分がいた。
それから真剣に「足裏」という存在について、これまでを振り返ってみた。
- いつもウォーキングできているのも、足裏があるおかげだな
- 足裏があるから立つことができる
- 足裏があるから大地からエネルギーを補給することができる
- 足裏があるから靴が履ける
- 足裏、確かに雑に扱ってきたな
- 足=汚い、臭いというイメージが強いかも
- 足裏という存在は、あってないようなものと認識していた
など、足裏に対して自分がどのようなイメージを持っていたのかが分かった。
それからは、とにかく自分の足裏を一日のなかで何度か撫でる行為を習慣化した。
- ストレッチしている時間
- お風呂に浸かっている時間
- 瞑想する時間
そうしたら、足裏を撫でる行為からなのか、バルスライブ後だからなのか、imacoco能力開花プログラムに参加しているからなのか、これまで自分がやってきたことの積み重ねなのか、イマ現在何か1つに特定することはできないけれど、ハイヤーセルフの声を感じ取れるようになってきた。
ハイヤーセルフの声を感じ取れるようになった
自分なりに、地味に、自分の感度を高めるワークを習慣化してきた結果、先にもお伝えしたようにハイヤーセルフとのコネクトが強くなってきた確信がある。
多分、自分自身への信頼が増したんだと思う。
例えば、今年の5月から6年ぶりくらいに再開したグラフィックアート制作。バルスライブ前に1件新規で制作の依頼が入っていたので着手したときのこと。
この制作をしている最中に、「自我」と「ハイヤーセルフ」の違いに気付かさられることがしばしばあった。
アートでは特に、「自我」で思考をこねくり回して作ろうとするよりも、「ハイヤーセルフ」から降りてきた「キーワード」を元に感覚的に創作していった方が、圧倒的に良いモノが生み出せると確信した。
このようにハイヤーセルフを基準にして制作を進めていると、「なんでこれがここにあるんだろう?」とか「これってあった方がいいのかな?でも、必要な気がする。」というように “人間の思考では” 疑問視してしまうようなことが連発する。
だけど、創り終えたときには全ての辻褄が合い、自分史上最高の仕上がりになるという、これまでに経験したことのない不思議な体験をするように変わった。
これは俺のなかで1つのバルスだったのかもしれない。
だがしかし、もっと突き抜けることができると思っているので今後が楽しみ。
「ありがとう」の後に自分の名前を唱える
ハートを開いて「ありがとう」「大好き」というワークがあるでしょ?
これをやる際に自分の名前が「ダイスケ」っていうのもあって「大好き → ダイスケ」って唱えるようにしてみたんだ。1字違いだから。
そしたら、「あれ?なんかめちゃくちゃ良い」ってなって、取り入れ始めた。
昔からなぜか、名前で「大輔」って呼ばれるのが好きだったんだけど、
- だいちん
- 宮大(宮内大輔の略)
- だいべぇ(中学生のとき日清のどん兵衛を変換された)
- 宮大、灯台、変態(小学生のときバスケ部だったんだけど、女子が着替える場所をタイミングを間違って開けてしまったときに名付けられた結構ひどいあだ名wちなみに灯台は、俺の地元に灯台があるから)
- だいちゃん
- 宮内
こんな感じで呼ばれることが大半だった。
だから、自分で自分の名前を呼んであげることが何故か癒やしに変わったんだよね。不思議と。
そうしたら始めた日から自己受容が高くなってきている感覚が強くなった。
「名前」って、その人のアイデンティティを表す代表的な1つだけど、盲点だったのが、自分の存在を確認できる唯一のツールでもあるということ。にも関わらず、自分が一番、自分の名前を呼べてなかった。
自分がこの世に誕生する前に自分で決めてきた名前なのに、自分が一番呼んであげられていなかったという事実。
「昔からなぜか、名前で “大輔” って呼ばれるのが好きだった」のは、「もっと、自分が自分のことを誰よりも観てあげて」ってことだったのかもしれないって思った。
これは今、この記事を読んでくれた人にも体験してみてほしいと思ってシェアしたよ。
また、何か気づきがあれば記事にして書くね。
最後まで読んでくれてありがとう。