DAisuke プロフィール 〜俺自伝〜

DAisuke のプロフィールに興味をもってくれて、ありがとう。

まずは、「DAisuke」という人間がどんな奴なのか?知ってもらえる情報があった方が良いと思ったのでプロフィールを作成したよ。

DAisuke 活動実績一覧』も良かったら読んでみてね。

もくじ

地球誕生歴

  • 宮内大輔(みやうちだいすけ)
  • 1983年9月11日 地球に誕生
  • 乙女座
  • 束縛を嫌う自由人タイプ
  • 子供は好きで妹から送られてくる姪っ子の動画を楽しみに観ている
  • 2020年から筋トレを習慣化する。プリズナー・トレーニング 圧倒的な強さを手に入れる究極の自重筋トレを参考書に地道に行っている。ダンベル・バーベルは使わない自重主義。
  • 健康オタク
  • 適職鑑定書」を読んでもらうと大体の人柄がわかると思う

幼少期

子供の頃から活発だった。

走ることが大好きで、少年ジャンプの発売日には、親からお小遣いをもらったらスグに文房具屋までダッシュで走り、買いにいっていた。

とにかく走ること、遊び回ることに生きがいを感じていたこともあり、短距離走・長距離マラソンも早く、上位にならないことはなかった。

縄跳びも得意で、小学6年生の頃には二重跳び120回を超え、全校生徒のなかでは No.1 だった。

小学生の頃から絵を描くのが好きで、よくスラムダンクやドラゴンボールの漫画を模写して描いていた。小学5年生では、自画像をテーマにしたコンテストがあり学年で銀賞を受賞。この経験が現在の「デザイン」「アート」「イラスト」に繋がっている。

運動は得意だけど、学問的なことには関心が弱く、勉強は楽しくなかったし、やる意味があるのか?って思ってしまうタイプ。今でもアンチ義務教育派で、子供のうちから自分で選択できる世の中であるべきと思っている。

基本的な性格は、ビビリではあるものの、経験値が高くなってくると余裕が出てくるので本領発揮できるタイプ。

小学生〜中学生まではチビだったので、いつも身長順で並ぶと前から3〜4番目くらいだった。いつも「俺の方が身長伸びた」「俺が前だ」だの言って、友達と少しでも後ろに並びたがることをしていた。(← 身長低かった人わかるよね?)

中学時代

中学では、小学生の頃から大好きだったバスケットボールに入部し、中学生活の大半をバスケと共に過ごす。もちろん、スラムダンクは大好き。ポジションは、ポイントガード。スリーポイントは連続10本に成功した経験がある。でも基本は2軍の補欠w。

ある日、同じ部活で仲良くしていた友人2名に無視されるという体験をすることに。一人は同じクラスで同じ部活だった為、精神的にキツかったな。まぁ、いじめている本人は「いじめている」という自覚がなく、ただ楽しんでいただけなんだろうけど。

それでも中学生活は楽しかった。

部活はハードで大変キツかったけどw、中学3年生の秋に行われた合唱コンクールの体験は素晴らしかった。みんなで一つの目標へ向かい、日々練習を重ねることで生まれる一体感。結果、学校内で No.1 になった。

合唱にしても、バスケにしても、複数名で行うことで生まれる一体感がどうやら俺は好きみたいだ。

その他では、高校受験での経験が自分を成長させてくれた。

勉強嫌いだった俺は、もちろん学校の成績は低い。だから、第一志望の高校を担任に申請しても「このままでは難しい」という状況が続いた。そんなことは分かっていた。それでも、他の学校へ行く意味も興味も感じなかった俺は、第一志望の高校を受験することに。

中学3年生から塾に通うようになり、家庭教師も頼んだ結果、少しずつ点数は向上した。この俺が受験シーズンに向けて毎日机に向かって勉強することになるとは、考えもしなかったよね。

受験に向けてやるだけやった結果は、不合格。同じ高校を受験した合格者に点数を訊いてみたところ、あと数点、5点でも採れていれば合格できていたみたい。

でも、俺は強い達成感を感じていた。

だって、あれだけ周りの “大人たち” “クラスメイト” から「無理だやめておけ」「絶対こっちの高校選んでおいたほうが良いって」と言われ続けたのに、合格目前までいけたんだから。あと一歩までいけたことが最高の結果だった。

卒業式では、最高の仲間とのお別れに我慢できず、卒業式を終えたクラスに戻る途中で号泣。小学生から当たり前のように同じ学校へ通ってきた仲間が、別々の道を歩むことに大きな節目を感じたね。

ちなみに、第二ボタン以外のボタン全て、名札、ジャージは女子のもとに。(意外とモテたっぽい)「第二ボタンください」って言われないと自分から渡せない奴なのだ。

高校時代

高校受験では第一志望をクリアできなかったのは先に伝えたとおり。よって、滑り止めの男子高校へ入学することに。

顔つきと態度がよろしくないのか、なぜか初めての人には恐い印象を与えてしまい「やべぇ奴」と思われることが多かった。(そんなことないんだけどね)

高校では、バスケ部に入部するつもりだった。しかし、一度見学しにいった結果、とてつもなく弱そうだったので、入部を止めることを決意。意気込んで親に頼み込み、アシックスのバッシュまで買ってもらっていたが、バイトすることに切り替えた。

高校生活での楽しみは、昼休みに仲間とバスケをすること、コンビニのバイトで先輩や後輩、友達と話しながら過ごすことだけだった。

バイト帰りに空を見上げたときに観える星空を眺めるのが大好きで、家の前に着いてからはスグに入らずに気が済むまで空を見上げている時間が好きだった。

美容師としての活動

「感動を与える職業に就きたい。」

美容師を志したのは、高校へ進学した年の秋だった。

高校卒業後、見習いとして自由が丘の美容室へ入社。美容師免許 取得のため働きながら美容専門学校 通信科へ通い始める。

一年後、自由が丘の美容室を退社し、目黒の美容室に入社する。入社後の3ヶ月間は定休日を除く全ての期間、1日も欠かさず上司に怒鳴られる日々が続く。

そんな姿を毎日見ていたアシスタントの先輩方々には「DAisuke は、きっと辞める」「首にされる」そう思われていたことを後に知る。

当時はとんでもなく使いものにならないアシスタントだった。

それでも職場へ「行きたくない」と思ったことは沢山あったが、「辞めたい」と思ったことは一度もなかった。

入社3ヶ月後、やってはいけないことが100リストあったとしたら全てにチェックを入れ、逆満点を取ったと開き直ってからは絶望的な状況から意識が前向きに傾いた。その結果、スタッフの信頼を少しずつ回復していく。

決して器用ではないが観察力と分析力が長けている為、日々努力を重ねていった結果、国家試験前にサロンの技術試験を全てクリアすることに成功。

しかし、国家試験の技術試験は楽々クリアできたが筆記試験を侮っていた為、一発で取得ならず。

半年後の再試験で無事に美容師免許取得後、22歳でスタイリストデビューを果たす。

担当した著名人のヘアセットをキッカケに苦手意識があったヘアアレンジの魅力に気付き、得意分野に変えていく。この経験が YouTube に発展していくことになる。

インターネットビジネスに出会う

スタイリストになり、5年が経過。

朝9時半頃に出勤し、夜8時まで営業後、アシスタントの練習を観るサイクルが週4日続いた。帰宅するのは早くても23時頃で、シャワーを浴びてご飯を済ませた後に、インターネットビジネスで稼げるようにと深夜2、3時頃までPCに向かう日々が続く。

当時は麻痺していたので気づかなかったが、今振り返ると精神的にも肉体的にもボロボロだったように思う。

2009年に初めて海外ひとり旅をロンドンで経験してから「日本という国」「これまで生きてきた自分自身」を観る目が変わった。

帰国後、少ししてから “美容室という箱” で毎日のように他人の為に働き続けるライフスタイルに疑問を抱くようになった。「もっと自由に生きてみたい」「もっと自由に環境に依存することなく好きな仕事をしたい」そう思った。

その1年半後、「美容師を辞める」ことを宣言し、業界から退こうと決意する。

「次を決めてから辞める」という行動ができないタイプのため、一旦無職になる。欲望のまま積み重ねた借金600万円の返済もあり、働かなくてはならない状況だった為、再び美容師として働くが、形態を変えた。

当時、PC1台で何処に居ても仕事ができることに憧れていた為、アルバイトとフリーランスの形態に活動を振り分けた。

インターネットを使ったビジネスに参入するが、3ヶ月後にアフィリエイトで1万円しか稼げるようにならない現実と、その不安定な感覚に疑念を抱くことになる。

この2年間は最も苦痛の日々だった。本当はやりたくもない1000円カットの仕事をお金の為だけに週4日働き続けた。週末はフリーランスの仕事を入れていたが、時間的ゆとりはあったので、新たなスキル習得の為に時間を費やす日々。

根はポジティブ思考な為、常に前向きではあるものの、「現実」と「未来の希望」とのギャップに不安を感じることも多かった。

独学から4ヶ月目でデザイナーとして独立

俗に言う「ビジネス」というものを学べたのは「与沢翼」のおかげだった。2011年に与沢翼の存在を知り、彼が初めて開催したオンラインビジネススクール「フリーエージェントクラブ」に入塾。

最終講義でメイク動画で一世を風靡していた「Michelle Phan」の存在を知り、YouTube の可能性を知ることになる。

その後、アフィリエイトだけで月に5万円〜25万円ほど稼げるようになったが、不安定感を払拭することはできなかった。「アフィリエイトではなく、もっと自分を活かせる何かがあるはず・・・」そう思い続けるものの、確信に迫るその “何か” に出会うことはできなかった。

その後、「Design」という分野に強く興味を惹かれることになる。当時働いていた職場が最高に嫌だった為、なんとかしてここを抜け出したいという強い想いから「独学で3ヶ月後にプロレベルのデザイナーになる」と決めた。

その後、Photoshop の参考書を片手に、PCの前で悪戦苦闘する日々が続いた。

しかし、美容師を経験したときに学んだ「最短最速学習ルート」という知恵があった俺は、参考書では上達が遅すぎると確信。学び方を変えた。

今では検索すれば溢れるほどの情報を得られる YouTube では、2013年当時「Photoshop」と打ち込み、検索しても大した情報は得られなかった。日本人のコンテンツは無いに等しかった為、海外のデザイナーが動画で操作方法などを解説してくれる動画だけを頼りに独学でスキルを上達させた。

ある程度上達してくると、友人のブログのヘッダー画像を作成したりしてデザインをつくることが楽しくて仕方なくなった。

独学で学び始めた2ヶ月後、「このままでは3ヶ月でプロ並みのデザイナーとして活動していくのは無理だ」と思わざるを得ない状況にいた。

そんなある日、フリーエージェントクラブで同期だったグラフィックデザイナー「小西玲太朗」からデザインスクールを開催するという知らせが届く。

「これだ!」と思い、資金不足だったが、アフィリエイトで稼いだ少額を頭金に即決で申し込みを決断する。

「グラフィックデザイン」「WEB・印刷物」「映像」とマルチに活動していけるマルチクリエイター育成塾が今の DAisuke を形成するキッカケとなる。

入塾後、俺はとってもワクワクしていた。初月では、Photoshop を学んだ。塾長がスグに仕事を受注できるように設計してくれていたこともあり、自分のブログや SNS を通じてブログのヘッダー画像を受注するようになった。

当初目標に掲げていた独学3ヶ月は難しかったものの、デザイナーとして名乗りを上げ、独立する。つまり、決断後、4ヶ月でデザイナーとして独立したのである。

デザイナーとして独立を決意した後、それまで個人事業主として日払い報酬で働いていた美容室を辞めた。独立後の全資金は、1528円だった。

勿論、恐怖心も不安もあったが、独立後は不安よりも希望とかワクワクの感情が勝っていた為、初月から25万円ほど稼ぐことができた。「意外にやっていけるもんだな」と思っていた。

しかし、独立して半年くらい経過した頃から先が見えなくなっていた。ターゲットにしていたクライアントがゴリゴリのネットビジネス系(情報商材販売)だったこともあり、依頼される内容に退屈を感じるように変わった。

また、経験を重ねるうちに自分が本当にやりたかったのは、デザインではなくアートなのでは?と思うようにもなった。

その後、人生で初めての疲弊を味わうことになる。

「バシャール」「エイブラハム」の本を読むようになる

これまでの人生で幾度となく辛い時期を乗り越えてきた俺は、初めて「あっ、もうダメだ」と思うようになった。

その後、残りの借金もあったり、塾の支払いが残っていた為、一度実家に戻ることを決意する。それしか選択肢が浮かばなかった。

デザイナーとして独立するときに堅く決心した為、もう一度美容師に戻ることはしなかった。

2013年11月。実家での生活は10年ぶり。一時的なキャッシュショートだったのでスグに東京に戻るつもりだった。

その後も「七五三 メモリアルパッケージ」の制作依頼が知人から入り、ビデオ版タイムカプセルをコンセプトにした初めての映像作品ができたりと一部の仕事は楽しめていた。

しかし、資金が出来たので再び上京しようとしたが、またキャッシュショートした時のことを考えると踏み出せずにいた。そうしてPC1台で何処に居ても仕事ができる状態になったものの、燻る日々が続く。

2014年から「バシャール」や「エイブラハム」の本を読むようになる。

著者 エイブラハム・ヒックス「引き寄せの法則」との出会いは、2011年に果たし、シリーズ本を全巻購入していたものの、何を言っているかわからな過ぎてブックオフ行きした経験後の2回目のシリーズ全巻買いだった。つまり、3年ぶりの再会だった。

それから意識の世界を学ぶことになる。

この期間があって良かった。この時期に自分を見直すことができたことにより、また新たな基盤が自分の内側に形成されたのだと思う。

この経験が『現実創造論』に繋がり、いま俺が創造するあらゆることの基盤になっていることは間違いない。

どれだけハウツーを学び、スキルを磨いても、自分の内側で常に発している「波動」が低ければ、大した創造はできない。全ての経験は、必ず未来に活かされるためであることを学んだ。

YouTube でヘアアレンジ配信を始める

地元の親友にすら地元に住んでいることを伝えず実家に身を潜め続けていた俺は、2014年から YouTube での発信を本格的に始めた。 “本格的に” というのは、2010年から “やっていたはやっていた” からである。

しかし、YouTube で生活できるまともな収益を得るほどには至らなかった。2013年10月に、ある上場企業から YouTube クリエイター向けの事業立ち上げに関する連絡が入り、YouTube の時代が到来することを確信したのち、本格的に参入することを決意する。

デザイナーの仕事も定期的に行っていたので、並行的に活動した。

2015年、それまで下請けの仕事も受けていたデザイン事業を自分が集客したクライアントだけに絞り、単価を上げて制作することを決意。やりたくもない、お金を稼ぐ為だけに行う仕事を全て断った。

そうして徐々に YouTube クリエイターとしての活動にシフトしていくことになる。

2014年から本格的な発信をしていった結果、ようやく安定収入が確立できたことで2017年春、再び地元を離れる。

健康・金融分野を学ぶ

2017年 夏。活動を YouTube だけに絞る為、デザイナー業務全般を休業する。

その後、2019年いっぱいまでは情熱をもって発信できていた YouTube も、やがて退屈を感じるように変わった。「お金」「時間」「やりがい」、過去の自分が望んでいたことは全て実現できた。

しかし、「ヘアアレンジという分野への興味関心の薄れ」「この先もこの活動をやっていきたいという願望の薄れ」に少しずつ危機感を抱くようになった。

その背景もあり、友人をきっかけに FX をやることになる。チャート分析というものが結構難しく、苦戦した。FX を始めてからはこれまで学んできたことと同じように、FX だけに集中した。

半年間、丸々、FX 以外の仕事は一切やらない日々が続く。

それから3年ほど FX をやるが、自分には向いていないことを悟り、暗号通貨のみトレードするように変わる。

この経験が「NFT」「ブロックチェーンゲーム」につながった。

デザイン制作・コンサルティング業を再開する

2021年1月、ひょんな事から数年ぶりに6ヶ月間のコンサルティングをすることになる。

全くやりたいとも、やろうとも思っていなかったコンサルティングを引き受けるという流れは不思議でしかなかった。

しかし、このコンサルティングをしていくなかで、クライアントの「商品開発」や「商品ネーム」を考えたり、決めたりすることがこんなにも楽しく、向いていることだとは思いもしなかった。

「仕組みづくり」が得意な俺は、商品開発だけではなく、セールスまでの動線も全て描き、プロジェクトではセールスを開始してから17時間後には完売となった。

事業を加速したい事業主は、以下のページを参考にしてみてね。

よかったらシェアしてね!
もくじ