本記事は、LINE公式アカウントで配信する予定だった内容をシェアしているよ。
長文だと読みにくいので、ブログにすることに。
本日の配信は、かなり深いテーマだと思っているので、一語一句読み進めることを推すよ。
配信タイトルは、ハイヤーセルフにシバかれて気づいた「自己愛の計測」5日間の旅。
いやぁ~、しんどかった。。。
15年ぶりくらいに風邪をひいたらしく、死ぬほど身体がだるくなり、5日間ほど寝込んでたよ🥶🥶🥶
体温計持ってないから、熱が何度あったのかは不明だけどw
寝込みに寝込んだら、少しずつ体調が回復したので、良かった。
今回の体調不良は、ただの体調不良ではなかったらしい。
この期間中は、ぼーーーーーっとせざるを得ない状況が続いたことで、自分の内側に更に深く潜り込んでいく体験をすることになった。
“感覚的” には、一度幽体離脱したような、そんな感覚なんだよね。
自分が地球上に誕生する瞬間、母の身体から血まみれで肉体が誕生したときの情景が頭のなかで鮮明に描かれたり、宇宙の視点から人間の視点に切り替わる瞬間のノイズが映像で流れてきたりとか。
なんとも言えない、不思議な体験だった。
その他には、
人生の核になる
「本当にやりたいことは何なのか?」
という問いと向き合わされたりとか。
これは、「好きなことをビジネスにして稼ぐ」とか、そういう類のレベルではなく、この地球に誕生する前に意図してきた「人生の核」になるようなレベルの問い。
そんなこんなで、今回の不調というギフトを通して俺は、自分の死に際を過去一リアルに考えることができたし、もう一度、今世の生命について考えさせられるような体験をすることになった。
このように5日間という長い時間のなかで、自分の信念や観念などと強制的に向き合わされることになったわけだけど、全てを一括りすると、それは「愛」という言葉に集約された。
「愛」について、これまでとは違った新たな側面に意識を向けることもできた。
結論・・・。
数字を伸ばしたり、高めたりすることで、自己への愛を満たしていたのだと思う。
人類がここまでSNSを通して数字を追い求めてしまうのは、数字で自己への愛を満たしているからだ。
↑これかなりヤバいテーマね。
これは俺自身も含まれる例なんだけど、
例えば、Instagramのアカウントを作成し、投稿をはじめた。
「いいね数」ゼロ。これが毎日続いていく。
YouTubeで動画配信をはじめた。
毎日投稿をしているけど、再生回数が10回を超える動画はゼロ。
YouTube始めてから、1か月経つんだけどな。。。
思っていたように上手くいかず、開始2週間で更新停止。
そうして1ヶ月経過した頃、動画に高評価が1つ付いた。
「やったーーーー!!!」
「やっと数字が伸びてきた!また再開しよっかな~♪」
って喜ぶよね。
仮に俺も同じ状況だったとしたら、きっと同じリアクションを取ると思う。
でもこれ、
なぜ「やったーーーー!!!」って喜ぶのか?
なぜ、「やっと数字が伸びてきた!また再開しよっかな~♪」ってなるのか?
あなたは、考えたことある??
俺は、この5日間ハイヤーセルフにシバカれるまで、気づくことはできなかったよ。
それは・・・
自分の価値や存在意義を、数字に変換して「愛」として計っていたということ。
つまり、数字が増えていくような体験をすれば、それは “数字の数が増えたことで自己愛を満たした証拠” となり、反対に増えていかないような体験が続けば、 “自己愛を満たせなかった証拠” として自己愛数値を無意識に計測してしまい、自己への愛に対する評価を下げてしまうのである。
だから、SNSやブログに付き纏う、数字の上げ下げに応じて、自分のモチベーションが変わってしまうのだと思った。
数字をモチベーションにしてしまうと、数字の結果がすべてになってしまう。
それくらい、人間は数字を過大評価してしまうと同時に、無意識に自己愛の計測をもしてしまうのだ、ということに気づいた。
そして俺自身がそれに当てはまっていることにも気づいてしまった😱
だから多くの人は、数字が高い人と無意識のうちに比較を行い、比較対象者を自分よりも上に位置したり、自己を卑下していくのだと思った。
それゆえに、SNSの更新が苦しくなるのだと思う。
反対に、だから辞めたときにラクになるのだとも思う。
なぜ人は、他人のSNSアカウントへアクセスし、いいね、フォロー周りをするのか?
表面的には、「利益を得たい」という気持ちの現れなのだと思う。
けど、精神世界の本質は、その数字で自己への愛を満たそうとしていたことの現れになる。
だから、やめられない人が多い。
これは、マーケティングとか、そういうレベルの話じゃないよ。もっと、奥深い話。
昨年末に「DAisuke式 ビジネス健康診断」というサービスをローンチした。
このサービスを申し込んでくれたうちの1人に、チャットでやり取りを進めていった結果、「自分のSNSアカウントにログインしようとしたらアカウントが凍結してログインできなくなった」という人がいた。
この流れに展開していったとき、当時の俺は気づくことができなかったのだけれど、今、なぜこのような展開に発展したのかの理屈を説明すると以下になる。
アカウントが凍結した理由は、
自己への愛を満たすためにSNSを通じてコツコツ貯めてきた「自己愛の象徴」が、自分の目の前から無くなってしまうことが恐かったのだと思う。
「えっ、せっかくフォロワー数も伸びてきて、集客できるようになり、自分の愛を満たせていたのに、整理して無かったことにするなんて、そんなの許せない!」「やめて!!!」ってね。
これが潜在意識の本音だったはず。
そしてアカウントが凍結したことは、一見いい方向に転換しているように解釈するものの、本質は真逆。
こういう人ほど、このような展開になったとき「😂🤣😭」←この絵文字を多発させて “ごまかす” よね。
なぜ、このような場面でおちゃらけてしまうのかというと、自分の本当の姿を見られるのが恐いから。一度閉ざした心の奥底にある本音と向き合うのが恐いから。
だから、肝心の場面ではいつもおちゃらけてしまう。
この人の場合は、より深刻な問いを重ねるごとに、この絵文字は使わなくなったけどね。
その他、
- 学校の通信簿
- テストの点数
こういう数字も無意識のうちに自己愛の計測をしてしまっているのだと思った。
「点数が高いと褒められる」という公式は、どこに紐付いているのか?
「親」だ。
「点数が低いと責められる」という公式は、どこに紐付いているのか?
「親」だ。
ではなぜ、「親」は、このような評価をしてしまうのか?
「親の親がそうだったから」だよね。
だから、勉強嫌いが行う○○受験は、精神的苦痛が大きいのだと思うよ。
どうして嫌で苦痛で意味のないことだと解っている大人が大半なのに、そんなに同じことを繰り返させるの?
新世代にそんなことを無理強いするのは、いい加減やめてあげてくれよ。
なぜ日本は、これほどまでに「お受験社会」になってしまったのだろう???
おい、みんな、いい加減、気づこうぜ。
・・・。
このようにして人類は、自分以外の何かに愛を求めては、目に見えてわかりやすい「数字」を獲得することで自己への愛を満たすことを当たり前にしてきた。
本当に求めている愛は、いつだって側に “有る” のに。
上記の例は、○○コンサルみたいなことをやっている人にも当てはまること。
例えば、コンサルティングをするうえで「チャットでやり取りすることが楽しい、やり甲斐を感じる」って人も、先のSNSの例と全く同じ本質。
その “やり取りがあるから” 自己を満たせるんだよね。
でも、そのやり取りがなかったら、いかがだろう?
そのやり取りが無くなった状態でクライアントに好成績が実現したとしたら、逆に嫌な気分になったりしないかな?
おそらく、そこに自我の存在を認識することができずに、苦しくなる人もいるはず。
それが、どれだけ高い報酬を貰っていたとしてもね。
この例を聞いて「コンサルってそういうもんでしょ?」って思ったのなら、「そういうものではないコンサル」をこれを機に目指してみるのも良いかもね。
あとは、
- ビジネスの実績とか
- 売上とか
- 年収とか
そういう数字絡みのことも、丸っきり当てはまる話だなってことにも気づいた。
俺も見直すべき点が多々あるなぁ。。。なんて、思ったよ。
という気付きと反省をシェアしてみた。
結構、確信を突いたテーマだと思うんだけどね。
ありがとう。
DAisuke